電車で楽チン大垣ポタ!【後編】

前回、電車に乗ってお昼を食べただけで終わってしまいましたが、大垣のポテンシャルはまだまだこんなもんじゃありません!

ということで、大垣ポタ!スタート!

 

大垣は水の都と言われるだけあって各地に水路、井戸のようなものがあります。

駅近くにある掘抜井戸発祥の地1)掘抜井戸発祥の地 天明年間(1781~1789)頃まで大垣地方では、生活用水として各町の裏通りを流れる用水を利用していましたが、渇水期になると、大垣の三清水(西外側町、清水町、室町)まで汲みにゆく事になり、非常に不便でした。天明2年こんにゃく屋文七が、川端に2メートル程の穴を掘りそこに5メートルの材木を打ち込み、その後へ節を抜いた青竹を力いっぱい打ち込みました。すると、その竹の先からきれいな水が噴出してきました。これはこれはと大層喜び、「これはの井」と名付けられましら。それ以来どこの家でも、自噴の井戸が掘られるようになり「井戸槽(いどぶね)」とよんでいます。

水は結構きれいに見えるのですが、飲めるのかな?

 

大垣周辺の地図を見てるとひまわり園の文字を見つけ、行ってみることに

揖斐川近くにある大垣ひまわり園に到着!

ひまわり畑は車が入れないように区画されてて、大きなカメラやビデオカメラを持った人達が仕切りにシャッターを切ってます。

特に目についたのは、インスタ映えを狙ったカメラ女子。

たぶん使いこなせないであろう大きな一眼レフに三脚を担いでゾロゾロひまわり畑に入ってきます。

日陰など一切ない炎天下なのに、こういう所では日焼け<インスタ映えなんだなと関心。

ご苦労さまです。

 

暑いので早々に退散し、水門川方向へ

水門川沿いにある住吉神社。

横の石段を降りると

水路のような所に小舟がありました。

川沿いなのでとても涼しくて、ひまわり畑より映えます(笑)

 

川沿いを少し進むと住吉灯台2)住吉灯台(すみよしとうだい)とは、岐阜県大垣市船町にある、かつての川湊の灯台である。があります。

大垣と桑名を結ぶ水運にこの水路が使われてたようです。

途中に掛かる橋も綺麗なものが多いです。

各所に松尾芭蕉の俳句が書かれた石碑があったり

船着き場だったのかな?と思わせるような少し広い所も

こうして水路沿いを散策するのも涼しくて見どころもあるので結構面白いと思います。

 

スポンサーリンク

 

 

水路を少し外れ

大垣宿本陣跡3)大垣宿 大垣宿は大垣藩の大垣城城下町でもある。このように宿場町であり城下町である場所は加納宿等がある。大垣宿は西口から東口までの長さは約2.9km、京口門(西総門)から名古屋口門(東総門)までの長さは約1.1kmあり、大規模な宿場町であった。京口門と名古屋口門は有事の場合、大垣城の7箇所の門と同時に閉鎖される仕組みであった。現在の大垣市の地名でいうと、伝馬町 – 本町 – 竹島町 – 俵町 – 船町 – 久瀬川町が該当する。に到着パシャリ!

大垣宿は美濃路の宿場なんだそうです。

少し北に進むと

大垣のシンボル大垣城!4)大垣城 宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみであったという。氏家氏、伊藤氏によって改築が加えられたとされ、1613年(慶長18年)には石川忠親によって総堀が加えられ、松平忠良が天守を改修した。その後1649年(慶安2年)に 戸田氏鉄によって明治に至る姿とされた。戸田氏改修後は並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていた。また、東総門から西総門にかけて、総堀の中の郭を美濃路が抜けていた。

関ケ原の戦いで西軍・石田三成の本拠地になったことで有名なお城です。

お城も見たことだし、暑さでしんどくなってきたので、そろそろ帰ろうかと地図を見ていると、大垣の湧水の文字が。

湧水というからには飲めるやつだよな…

丁度ボトルも空になってたので水分補給も兼ねて行ってみることに。

 

そして大垣八幡神社5)大垣八幡神社 建武年間、東大寺の荘園大井荘であった美濃国安八郡大井(現大垣市)に、東大寺の鎮護神である手向山八幡宮を勧請したのが始まりという。1451年(宝徳3年)、現在地に移転する。戦国時代の兵火で焼失したが、1647年(正保4年)、大垣城城主、戸田氏鉄が再建する。この再建を祝って始まった例祭が大垣祭の始まりという。2010年(平成22年)、神社と湧水が大垣市景観遺産に指定される。に到着。

境内を見渡すと

湧水を求めて沢山の人が集まってます。

近くの案内を見ると、最近掘られた物らしいです。

さっそくボトルに補給し、一口ゴクリ!

地下水だけあってよく冷えてて柔らかくとても美味い!

ゴクゴク入っていきます。

みんなが汲みに来るのも納得の湧水でした。

 

その後、大垣駅に戻り

 

シメのデザート!

「金蝶園 総本家」水まんじゅうです。

よく冷えた水まんじゅうはとても旨い!ポタリングの疲れた体に染み渡ります。

本葛、本ワラビで作られたフルフルの生地の中に色々な餡が入ってて見てるだけでも涼しげです。

水まんじゅうは4月頃~8月末までの期間限定で販売されており、お店の前でお猪口に入った水まんじゅうを取り出して販売してくれます。

 

デザートも食べたし、帰ろう!

養老鉄道に向かい時刻表を見ると

ん!?

自転車マークが無い!

土日の養老鉄道は終日サイクルトレインなのですが、平日は通勤、通学があって混むからなのか9時~15時前までしかサイクルトレインとして運行してません。

水まんじゅうに気を取られゆっくりし過ぎたか(´・ω・`)

仕方なく輪行袋にPrestoを詰め、JRに乗り名古屋経由で帰ることに。。。

その後、お盆で混み混みの名古屋駅でPrestoを背負いながら死ぬ思いをしたのは言うまでもありません(´・ω・`)

 

スポンサーリンク

脚注   [ + ]

1. 掘抜井戸発祥の地 天明年間(1781~1789)頃まで大垣地方では、生活用水として各町の裏通りを流れる用水を利用していましたが、渇水期になると、大垣の三清水(西外側町、清水町、室町)まで汲みにゆく事になり、非常に不便でした。天明2年こんにゃく屋文七が、川端に2メートル程の穴を掘りそこに5メートルの材木を打ち込み、その後へ節を抜いた青竹を力いっぱい打ち込みました。すると、その竹の先からきれいな水が噴出してきました。これはこれはと大層喜び、「これはの井」と名付けられましら。それ以来どこの家でも、自噴の井戸が掘られるようになり「井戸槽(いどぶね)」とよんでいます。
2. 住吉灯台(すみよしとうだい)とは、岐阜県大垣市船町にある、かつての川湊の灯台である。
3. 大垣宿 大垣宿は大垣藩の大垣城城下町でもある。このように宿場町であり城下町である場所は加納宿等がある。大垣宿は西口から東口までの長さは約2.9km、京口門(西総門)から名古屋口門(東総門)までの長さは約1.1kmあり、大規模な宿場町であった。京口門と名古屋口門は有事の場合、大垣城の7箇所の門と同時に閉鎖される仕組みであった。現在の大垣市の地名でいうと、伝馬町 – 本町 – 竹島町 – 俵町 – 船町 – 久瀬川町が該当する。
4. 大垣城 宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみであったという。氏家氏、伊藤氏によって改築が加えられたとされ、1613年(慶長18年)には石川忠親によって総堀が加えられ、松平忠良が天守を改修した。その後1649年(慶安2年)に 戸田氏鉄によって明治に至る姿とされた。戸田氏改修後は並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていた。また、東総門から西総門にかけて、総堀の中の郭を美濃路が抜けていた。
5. 大垣八幡神社 建武年間、東大寺の荘園大井荘であった美濃国安八郡大井(現大垣市)に、東大寺の鎮護神である手向山八幡宮を勧請したのが始まりという。1451年(宝徳3年)、現在地に移転する。戦国時代の兵火で焼失したが、1647年(正保4年)、大垣城城主、戸田氏鉄が再建する。この再建を祝って始まった例祭が大垣祭の始まりという。2010年(平成22年)、神社と湧水が大垣市景観遺産に指定される。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です